昭和56年7月23日 月次祭

 先代金光様のお書き下げの中に、「しんじんのけいこ」と平仮名でお書きになっておる色紙がございますが、その色紙を、いつも見ておりますと、どんな場合であっても、あっこれで信心のけいこさせて頂くんだなと。私は、大変それによっておかげ頂いてまいりましたが、今日フッと私は思ったんですけれども、信心のけいこ、信心のけいこと、おー、まあ、申しますけれども、そかの方は、そのけいこの仕方というものを、おー、知っておられんのではないかと言うことでございます。

 私はそれを、なら、今の言葉で言うと、合楽理念に基づけばこういう時には、こういうふうにしてけいこしていくんだという、けいこの手立て、ね。けいこのしみちを覚えておるから、金光様のそのお書き下げを見せて頂いただけで、いつでも、どんな場合でも、あ、これでけいこしよると仰っておられるなーと思うのです。

 二代金光様の御教えの中に、うー、「大海にはクジラがすもうが」と。ね。竹の筒に水がたまったような信心をするから、ね、ぼうふりぐらいなものしかわかんと仰る。ね。ぼうふり。ね。大海しん?クジラがすもうがと、大海のような信心をし。もう、それこそ限りなく頂いてきた御教えでございますけれども、果たして、そんなら大海のような信心とは、もちろん大きくて深いというわけでしょう。けれどもその、大きくなれれる、深くなれれる手立てを教えられなかったように思います。

 だから、いつもやっぱり大きな願いとか、大きなおかげを頂きたいと、祈ったり、願ったり、思うておるのですけれども、大きなおかげがうけられんでおるのが実情ではなかろうか。ねー、それをなら、合楽理念をひも解くとです、ね、なるほど、大きな心、大きな豊かな心に。ね。豊かな世界に住んでおれば、豊かないわば、金にも物にも一切のもの、豊かにおかげがいただけるという実証を、まあ、させて頂きながら、合楽では、合楽理念として皆さんに聞いていただくのです。ね。

 今日私、お道の新聞がまいりましたから、佐田先生に、まあ、あの大事なところだけ、一番始めに必ず、その論説?を読んでもらうんですけれども、その論説の中に、まあ、聞いておってなにか、無常感というか、悲しいなるよな、表現があったんです。それには例えば、教団が一生懸命100年祭を目指して、100年祭、100年も、あらゆる手立てをもって、今全教の者が、100年祭を目指してどうあればよいか、どうせねばならないかと、ね。また、どうおかげを頂きたいというように、えー、まー、一生懸命努めておるかということですけれども、これは、御取次ぎ成就、信心生活運動というのが数十年前におこされて、それが、あー、最近では、御取次ぎ成就、信心生活、あー、新ということ。新しく御取次ぎ成就、信心生活運動というのが、まあ、教団に展開されて、果たしてその御取次ぎ成就、信心生活運動というのが、運動はしてきたけれども、結果が一つも上がってない。

 今日、坂根先生がお届けをいたしますのに、家内でありますまつこさんが、今あー、御本部へ修行にいっております。で、そのまつこさんのことをここでお届けするんですけども、親先生明日は、あのまつこが、あー、正奉仕でございますそうですから、どうぞよろしくお願いしますとこう言う。あら、あんたこの頃も正奉仕じゃったろうが、まつこさんな。あちらに行ってからすぐでしたか、あたしは覚えておったんです。もう、一年にそれこそまあ、一回、一回二回ぐらいでしょう、学院で正奉仕を、御用が回ってくるのが。それで、えらい早く回ってきてから、ちょっとそれは今年は、学院生が少ないです。いつも100名からあるのに、今年は六十数名しかない。あら、そんならあんた、この頃私は、壮年会の時のあのパンフレットができたのに、合楽では先生方が、67名おります。ね。御本部では、いわばもちろん、んー、えー、今年の学院生ですけども、六十数名。

 いわいる、学院生が少ないから、早く回ってくるわけ、当番が。それこそ、聞かせて頂いて、それを聞いたり、これを聞いたりしよって、ほんとに淋しいという気がいたしました。なぜか、もう100年が、100年祭を数年後に控えて、そして、もう100年祭が目指して、勢いが出てきたという話ならなんですけれども、だんだんこうしりごそりに、しかも、うーん、ま、記録破り的に、少なくなっていきよるというような話を聞いたり、その論説の中にです、ね。無力感という言葉が使ってあります。ずいぶんと色々やってきて、結局、いろんなことをやってみて、とにかくあの、おー、人間がいかにバタバタしたところで、おかげが頂けるもんじゃないんだなぁー。まるっきり無常感のような感じが、私それ聞きながらしたんです。

 ね。それが、どういうところにその原因があるのだろう。いうなら、金光教の政治なら、政治度というものがです、ね、ますこし政治的な、あー、ことに対して、えー、活発なもっと画期的な、あー、建設的な政治に変えられたら、あー、というようなことも、ま、書いてございましたがです。政治の仕方がいくら良かったって、ね、どんなに只今、数十年間、御取次ぎ成就、信心生活運動そして、それに新の字をつけて、新御取次ぎ成就、信心生活運動といったような運動が展開されておるのにも関わらず、それがこう、発展の一途を辿るということではない。反対の方へあるというところにです、ゆうならば、あー、と言ったような無力感をほんとに感じる思いであります。

 ね、私今日思うんです。あの信心のけいこができないからだと思います。口を開けば信心のけいこ、信心のけいこと言う。それは、一生懸命にお参りをする、一生懸命に御用をする。私共もそういう時代があったんですけれども、それで信心のけいこがでけるというわけではない。ね、私は三代金光様のその色紙を見せて頂くたんびんに、ね、いろんな問題をもっておる、その問題が、あー、この問題をもって信心のけいこをさせて頂くんだなというふうに思うと、合楽理念が生き生きと自分の心の中に、頂けてくる。ですから、その生き方をさせて頂く。大海にはクジラがすもうがと。大海のような信心をせよっと仰るから、そんならっと大海のような信心をさせて頂こうと言うて、天下国家のことを祈ったからというて、大きな信心ということではないということ。

 ね、小さい信心から大きな信心にだんだん育っていかなければなりませんけれども、育っていくためには、どういう栄養というかね、えー、育つ手立てというものを考えなければならない。けいこ、けいこと言うけれども、これは、こういう場合には、こういうけいこでなからなければならんということをです、私は教団全体がね、けいこさせてもろうて、その手立てを作っていかなければならというふうに思います。

 また、今日は、さきほど、玄潮があー、教会にお供えを頂きます。玄潮という、九州のおー信徒会でですかね、でけておりますご本です。立派な本です。ね、それにはぐったところに大きく、「天地自然と調和する社会」と言う見出しで、こう記事がのっております、記事は私は小さい字ですからわかりませんけれども、大きな字で書いてあるのが、「天地自然と調和する社会」。私は、これはね、あの、必ずしも宗教人じゃなくても、いいと思うんです。これは、もう半年も前だったでしょうか、本部で、えー、先生方の会合があった。そん時に、いわいるこの、天地自然と調和するというそのー、話が出たときに、ある偉い先生に、ここの修行生の先生が、質問をした。「天地自然と調和するということは、どういうことでしょうか」と。そうですなー、今はもう山がはげ山になってしまっていきよる。川が汚染させていきよる。ね、そういうことでは自然と調和するということにはなりません。ね、そういうことを防ぐというようなことではないでしょうかという、返事が返ってきた。どうでしょうか、皆さん。確かにそうですね。けどもそれは、宗教人じゃなくても、もうそれこそ、あの、科学をなさる方達が、もう、早く気がついて、これを防止しなければならない、えー、ゆうなら、自然との調和を保つ、何とか手立てをしなければならんと、まあ、いわば、あー、ゆうておられることであり、実際なさっておられることであります。

 私はこれは、ね、天地自然と調和するということは、私共の心と、天地の心がね、ゆうならば、交流しあうということ。ね、調和する、そして、その向こうにある、ゆうならば、合楽しあう世界を、合楽では、解きます。合楽理念では特にここんところを、もう、密に解きます。

 ね、「天地の心知りたし道あらば、示せ天地、己が心に」。まあ、これは、私が、どんなに考えても、どんなにしても、その天地との交流ということにつながることができずに、まあ、悩みぬいておった時分のお唄なんですよ。それが、だんだんをおかげを頂くようになって、いよいよ成り行きを尊ばしてもらい、黙って治めるという信心。ね。いよいよ成り行きを尊ばさせて頂くという生き方をさせて頂いておりましたら、天地自然との調和どころではない、交流し合える世界がうまれてきた。

 私はだから、皆さんもね、信心のけいこをすると言うても、そのけいこの焦点がはっきりして、しかもそれに、手立てをね、私は、合楽理念によって、浸透を頂いていかんならん。これは、めいめいのところで頂いていただかんならん。合楽ではそれが、ある。頂けるんだと。ね。

 信心が、いわいる無気力になってはならない。とにかく、お願いしておかげの、おかげの頂けないことがわかったではなくてです、ね、本当に神様は夢にも思わなかったようなおかげにしていって下さるんだと、ね。これは、合楽教会のおー、今日の状態を、まあ、ゆうならば、日勝り、月勝り、年勝りにおかげを頂いておる状態がそれだと思います。ね、ただ、そういうおかげの頂けれる、んんなら、教団。初めて私は、ね、和賀心時代を世界に広げていこうという、合楽での、んまあ、スローガンのようにもしております、信心を皆さんも自覚して、まずは、自分自身が信心のけいこの焦点をはっきりふんまえて、ね、いよいよ確たるものにしていかなければならない。

 先生、今、あのー、発表があっておりました、この31日ですか、31日でしょう。あの、心行の終わる日にあたる。ね、あの、こんど先生が見えて、いわいる100年祭を目指してのそれこそ企画、一つなんです。各教会を偉い先生方が、ずっとお話しをして回られる。その講台がなんと「世界をつつみまわす」ね、お道の信心によって世界をつつみまわすという講台だそうです。これは、最近教祖の神様の御教えがいろいろとたくさん新しくでけ、あのー、発掘されていっておるわけです。今までは、知らなかった御教えの中の一つです。金光大神が世界をつつみまわすと言うておられる。和賀心時代を世界に。合楽理念をもって世界津々浦々に、合楽理念による助かりを、おー、願い、そしてそれをえー、実験実証していこと言うのです。

 ですから、合楽でいう、和賀心時代を世界にと。今度見える先生のお話がです、世界をつつみまわすという教祖のお言葉に、あー、現代の金光教では、どういうふうに考えておられ、どういうふうにすれば世界をつつみまわすことができるのであるかというようなことを、非常に興味をもって私は、あー、待たせて頂いております。皆さんもどうぞ、そのおつもりで、日頃合楽で頂いておる信心と、ね、教団でえー、まあ、言うておられるというか、世界をつつみまわす教団。確かに教祖の信心は、世界をつつみまわすだけの内容をもっておるです。もう、合楽理念をひも解けば、それがあまりにも、おー、その内容がです、いわいる、普遍性にとんでおるということです。ね、どこの黒人の人にでも、白人の人にでも、黄色人種の人にでも、どこの人でも、よくよく、まあ、お話しをしてあげれば皆合点がいくことだろう。そして、人間が本当に救われ助かっていく道は、これだというふうに、わかってもらえれる内容を持っておる。そんなに素晴らしいのです。

 それを合楽理念では、いよいよ素晴らしく、それをー、おー、まあ、合楽理念によるうー、解明がなされております。ね、それにはまずね、私共が、本当に、まず自分の心、自分の家庭、自分の周辺にです、ね、それを広げていけれる内容のものにして、始めてね、そういう精神を一つにして、大きくいわいる願っていくところから、まあ、世界をつつみまわすような働きにもなってくるのじゃないでしょうか。

 先だって、末永先生からこれは私宛てにまいりました、手紙の中に、もうしております、えー、こういう手紙が何日か前に、えー、サントマイロ?教会のおー、かき、あちらでは冬ですけれども、ちょうどあちらでは、あー、雪が降ったというんですね、珍しく。もう、普通冬服を着て、オーバーを着るということはないんだそうですけれども、ちょうど冬服を着てオーバーを着てちょうどよいような時候の中に、えー、大祈願祭をもようさせて頂いた。もう、ほんとに、サントマイロのご信者さんたちが育っていっておられるということ。もう、お広前に入りきらんような、たくさんなご信者が、育っていっておるということ。いつも、何や何やらわからんようなご信者さんばかりでしたけれども、この頃では合楽から送られる、いわば、おかげの泉とか、テープなんかを聴いて、もう、一人ひとり、お取次ぎを願われる、お取次ぎを願われる願われ方が、非常にほんとなものになっていっておるということを大変喜んで、えー、言ってきております。

 ね、例えば、あー、海をこえた、南米にです、いうならば、もう三ヶ所のお教会が、こうでけていっておる。いわば、世界をつつみまわすということ、そういうことだと思うんです。それは、今世界のどこの国でも、簡単に渡ることのできないし、また、受け入れる、えー、くれないというのが現状ですけども、そこをです、なんとか手がかりを頂き、足がかりを頂いて、それこそ世界万国津々浦々に、なんとかその手がかりを頂いて、こういう素晴らしい内容。今の金光教があの、まあー、あの、今日の論説の中にえー、ありますようにね、その無力感をもって、渡ったところで決して人は助かりませんね。

 ところが、あー、合楽の、合楽の信心をもってすれば、合楽、もう何々は、合楽理念をもってする他はなしという、体験と、自信のゆうならば、その確信をもって、えー、いけれるんです。ね、それが、まあ、なら、あー、南米で言葉の分からない外人にも伝わっていきつつあるというようなところから思うてです、世界をつつみまわすとか、世界に和賀心時代をつくるという、そういう一歩、一歩が確実にこう踏みしめられていかなければならない。その、なら、合楽理念とは、信心のけいこをさせて頂く手立てが、あらゆる角度から解いてあるということです。

 私は今日思いました。はあー、どんな場合であっても金光様の色紙を見たら、あっこれによってけいこさせて頂くんだと思うたら、この思いが軽うなる。ありがたくなってくる。ところが、これは、私以外のほかの方達が見たぶんでは、はあーこれによってけいこする。なら、一生懸命まいらにゃこて、一生懸命修行して、一生懸命御用せにゃこて。それでは助からないという事実を、このいうなら今日の論説は、あの、まあー、言っておるのじゃないかというふうな感じがするんです。

 合楽の場合は確かに間違えなく、ね、こういう場合にはこういうて立て、こういう生き方をもって、えー、信心のけいこをさせて頂くんだと、いうその、基本のところが分かってまいりますとね、えー、学生諸君の勉強でもそうです。勉強、勉強といわるるから、勉強するけども、一向に勉強がみにらんと。それは、勉強の手立てがまだ分かっていないから苦しいばっかりだと。勉強の手立てがわかったら、勉強が好きになるということです。ね、信心もそうです。いよいよ手立てが分かれば、信心が楽しいもの、有り難いものになってくるんです。ね。しかも、愉快なものにまでなってくるんです。ね。

 信心のけいこと一口に申しますけれども、四神様が仰るように、ね、大海にはクジラがすもうがと。竹の筒にぼうふらがわくようなおかげしか頂いていないとするなら、これは、大海のような信心を目指さなければならない。なら、大海のような信心をさせて頂く手立ては、いわば、合楽理念によらなければならんということになります。どうぞ。

大坪治子